土木歴史散歩第7回「秀吉も逃げた大震災」
2013/9/6
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戦国時代、天災は身分に関係なく武将たちをも震撼させた。
例えば、天正13年(1586年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町を震源として中部地方と近畿東部を襲ったマグニチュード(M)7・8の内陸地震・天正地震は、多くの武将の運命を変えた。
奥飛騨・白川郷の帰雲(かえりぐも)城は、帰雲山の中腹が崩れ落ち、土砂が川を渡って押し寄せた。城と城下は一気に呑み込まれ、城主も領民も消えた。
砺波(富山県高岡市)の木舟城は、激しい揺れで倒壊。城主の前田秀継夫妻が圧死し、数年後に廃れた。また、長浜城城主の山内一豊は、愛娘を失った。
関白の地位に昇り詰めていた豊臣秀吉は、かつて明智光秀の居城であった坂本(滋賀県)の城にいた。近江の湖畔の風光明媚(めいび)を秀吉は気に入っていた。しかし、琵琶湖を埋め立てたエリアは長浜城と同様に液状化現象を起こした。この時、肝を潰して逃げ出した秀吉の様子を、ルイス・フロイスが『日本史』に著している。「彼は、その時に手掛けていた一切を放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した」とある。
その10年後、秀吉は再び、大地震に遭遇した。慶長元年(1596年)、M7・3規模の地震が畿内一円を襲ったのだ。伏見城と城下町が壊滅的被害を受けたことから伏見地震と呼ばれている。
伏見城再建で秀吉は、城づくりの流れに逆行して、平城ではなく地盤が安定している高台に移転させる。城の柱は、礎石に乗せるタイプと地面に埋め込むタイプを併用して設置するなど耐震性を強化した。地震へのトラウマが、秀吉の城づくりを変えたと言えるだろう。(緒方英樹)
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